私たち人間は互いに「よい・わるい」、「できる・できない」などとレッテルを貼り合い、比較の中に生き、疲れを覚えます。それは造り主なる神から離れているからです。一方で人は、自分のことはコントロールできると思っています。どうにもならない経験をしなければ、救いを求めないのです。
この箇所は旧約時代の幕屋について書かれています。幕屋で祭司は日々礼拝を献げ、大祭司は犠牲、身代わりのいけにえの血をもって民の罪を贖いました。しかし、それは年に一度のこと、至聖所は幕に覆われ、見ることもかなわないところでした。何を意味しているでしょうか。それは神は聖い、義なるお方であり、人間は罪深く、神の御前にそのまま立つことができないほどに隔たっているということです。そして、どんなに儀式をしても不完全。それほどに人は汚れているのです。
しかし、キリストはご自身の血、十字架の贖いをもって私たちのために身代わりとなってくださいました。罪なき神ご自身が身代わりとなってくださったゆえに、私たちは罪赦され、新しいいのちに生かされたのです。キリストが十字架の上で死んだその時、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。それは隔てられていた神との交わりが回復した象徴です。そして誰もが万人祭司として、
キリストの御名によって神に祈ることができるのです。
私たちはこの神の前に、十字架でいのちを捨てるほどに愛してくださった神の前に帰るのです。そのとき、比較し合い、さばき合う世界から救われます。私たちの心が造り主なる神に向いて、本来私たちが生きるべき場所にいることができるからです。そこにある平安と喜びをもって生きるように招かれているのです。さあ、あなたも神の御前に。