パリサイ人とヘロデ党の者たちに続いて、今度はサドカイ人です。そのテーマは復活。私たちの社会は超高齢化社会となりました。「終活」について語られるようになりましたがその先の死後には何ら確かなものはありません。一方、初代教会、使徒たちのテーマはいつも復活です。そこには殉教すら辞さない希望がありました。復活には、この世のすべてを乗り越える希望があるのです。
サドカイ人は復活を信じていません。彼らはモーセ五書のみを規範とし、律法と祭儀を守り行えば祝福が与えられると考えていました。彼らには、復活によって与えられる新しいいのちよりも、今の生活が大切なのです。それで復活のときには7人の兄弟が順に妻とした女は誰の妻になるのかという筋違いな質問をします。「聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしている」、それは目に見えて理解できる世界しか信じないからです。
イエスは言います。「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」今、この地上のからだは、病あり怪我あり、弱さがあり、欠けがあります。悩ましい影があり、あるいはトラウマを引きずっています。悲しみに潰されそうになり、心憂える様々な過去をも抱えています。それらは、みな贖われ、全く新しい関係に造り変えられるのです。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、彼らは過去の人ではなく、今も生きている。復活のからだに生きている。すでに旧約の先達もそうなのです。なおのこと、私たちにとっては十字架に架かりよみがえられたイエス様という確かな確証が与えられています。復活、それはすべてを新しくし、すべてを贖い、すべてを希望に変える慰めの時です。栄光に満ちた喜びの時です。信仰の先達たちがその列に加えられたように、それを信じるなら、その恵みにあずかるのです。