パウロはピシデヤのアンテオケの会堂で十字架と復活のメッセージを語りました。次の安息日になると「ほとんど町中の人たちが」このメッセージを聞きに集まってきました。ユダヤ人たちはねたみに駆られてパウロたちに反対をし、口汚く罵りました。話した内容が問題ではないのです。ねたみが動機です。私たち人間はことの善悪、あるいは内容がどうかということよりも、実のところ感情や思惑でことを動かすものです。昨年来、「原子力ムラ」と揶揄される体質について耳にします。ムラの中では閉鎖的なムラの原理、あるいは人の力関係でことが動きます。間違いは認めず、排他的に自分たちを守り、外からの声には自分たちを正当化します。
マタイ20章には、ぶどう園のたとえ話がでてきます。主人が朝早く収穫のために労務者を雇いにでかけました。9時、12時、3時、5時にも広場で人を雇い、最後の物から約束の一デナリを支払った話しです。徹底して神が恵み深いお方だということです。一方、私たちは横並びに人を見ます。そして比較してうらやんだり、ねたんだりして、神の恵みのチャンスを逃してしまうのです。
ここには、救いの予定が記されています。ウェストミンスター信仰告白には次のようにあります。「予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの召命の確かさから自分の選びを確信するよう特別な配慮と注意をもって扱われなければならない。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と称賛の、また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう。」そう、救いは徹底して恵みであることだけに目を留めること。あなたはどうでしょうか。