「とほき日に子を逝かしめし若き母
老いて自責に泣きてやまざり」
名もない詩人の短歌ですが、母の思いをよく言い表した詩でしょう。母はいつでも必死です。我が子のためならどんなことでも、そして代われるものなら代わってやりたい。スト・フェニキヤの女もそういう母でした。悪霊につかれた娘のためにイエスのことを聞きつけるとすぐにいやしを願い出るのです。
ところがイエスはあっさりと断ります。私の使命はイスラエルのためだと言うのです。罪の世にあって、ノアの洪水のように滅ぼされてしかるべき人を救うため、神は特別にアブラハムとその子孫をお選びになりました。それは彼らを救いのさきがけとするためでした。女にとってそんなことは知るよしもありません。しかし彼女は、「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」とあくまでイエスに願い続けるのです。
私は恵みを受ける資格はない、そんな器に過ぎないことは重々知っています。でも、あなたにしか救いはないです。私をあわれんでください。それが彼女の思いです。重なるのはイエスと共に十字架につけられた犯罪人です。彼もまた同じように、「私を思い起こしてください」とあわれみを願うのです。イエスが山上の説教で教えた「心の貧しい者は幸いです」と言われる者の姿です。
主の御前にそのような思いで来る者にイエスはあわれみ深くあられます。彼女の娘から悪霊を追い出されました。私たちの願いととりなしも主に覚えられています。その条件はただ一つ。イエスに対する信仰です。とるに足らない小さな者に過ぎず、自分にはどうにもならないことを謙虚に認め、主に祈り続ける者に主は導きをくださるのです。主よ。あわれみ給えととりなし続けましょう。