イースターの朝、闇は光に、絶望は光に変わりました。私たちの周りも今、不安という闇が覆っています。復活の勝利という希望をもう一度覚えたいと思うのです。
週の初めの日、二人の弟子はエマオへと向かっていました。彼らはこの受難から十字架、そして今朝起こった出来事、女たちとペテロたちが空の墓を見たこと、それらを論じ合っていました。イエス様は十字架に架かり、3日目によみがえらなければならないことを弟子たちにお話になっていたはずでした。しかし、人は受けいられる現実しか見ようとはしません。彼らにとって復活とは、おおよそ考えられないできごとだったのです。
その彼らのところにイエス様がこられ、一緒に歩いてくださいました。あからさまに、責めたりはなさいません。「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」(25)と語り、彼らの心を奮い立たせるように、聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされたのです。彼らの願いは「イスラエルの贖い」。国が変われば、周りが変われば、誰かがどうにかしてれればと周囲に期待をかけても、我が身の救いがなければ何の意味もありません。
目的の村に着くと、イエスはそこで彼らの目を開かれました。それは、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改め」の証人となるためです。目の妨げが取りのけられたときに彼らはイエスの与える救いがはっきりと見えるようになり、先駆けとしていただいたこの救いを伝える者となったのです。
私たちに復活の主が与えてくださっているのは、罪の赦しと御国の希望です。死の恐れをも乗り越える確かな希望です。その希望を伝えられた最後の一人として、この恵みを伝える器としてささげることをともに祈りましょう。