受難週、十字架に向かうイエス様は、黙々と訴えられるまま、ひと言もお答えにならず、十字架に向かいます。そして、十字架の上でいのちを捨ててくださいました。なぜ、それほどまでなさるのか。なぜ、あえて苦しみを忍ばれたのか。その極みは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。永遠から永遠に一つの神が引き離され、断たれる痛みです。
その前に祈られたゲッセマネの祈り、それは最後の誘惑です。最初の荒野の誘惑は自分の思い通り、願い通りにする誘惑でした。最後の誘惑も同じです。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」それがイエス様の願いです。一方で、「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈ります。この祈りは闘いです。自分の思いを捨て、自分のからだを捨て、すべてを献げることへの闘いです。愛の闘いです。それに打ち勝ち、「立ちなさい。さあ、行こう」。と自ら十字架に向かわれたのです。
1ペテロ2章にその意味が記されています。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(2:24)受難週の初め、エルサレムに入られたイエス様が最初にしたのは宮きよめです。本来あるべき姿、「あらゆる民の祈りの家」(マルコ11:17)を取り戻すためです。失われた神との交わりの場、そこで献げるべき祈りは同じように愛の闘いです。罪を悔い改め、自らを献げる祈りです。
私たちはこのゲッセマネの祈りによって自らを明け渡していのちを捨てられたイエス様の5愛を受けた者です。その足跡に倣い、自らを明け渡す祈り、愛の闘いによって力を得て、愛を生きる歩みを献げようではありませんか。