それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
1コリント12:25-27
教会とは何か?と訊かれたら何と答えるでしょう。世の中の人に聞いたら、いろいろな答えが返ってくることでしょう。立派な建物やチャペルを思い浮かべる人もいれば、結婚式とウエディングドレスを思い浮かべる人もいるでしょう。十字を切る人が思い浮かぶ人もいれば、オルガンと讃美歌の音色が聞こえてくる人もいるでしょう。教会という日本語はまた、他の宗教でも使われています。
聖書の中で教会と訳されていることばは「エクレシア」というギリシャ語ですが、もともとは人の集まりである「集会」を意味することばです。教会は何より人です。キリストによって呼び集められた人の集まりです。そして、呼び集められた人は「キリストのからだ」をかたち造るひとりひとりであり、そのかしらはキリストです。
その教会の目指すべき姿、あるべき姿についてパウロは語ります。「いたわり合い、ともに苦しみ、ともに喜び、一つとなること」です。
それは本来の人の回復です。神が人をお造りになったのは、三位一体の神が愛の中に一つである素晴らしい交わりをもっておられるように、人もそれを生き、神の御栄えを現すためでした。それこそ人の生きる大きな目的でした。しかし、人は罪のためにそれぞれが自分中心に生きるようになり、バラバラになりました。人と人の間は夫婦の間、親子の間、男と女の間、階級間、民族間、世代間、国家間、ありとあらゆる「関係」が分断されてしまいました。そればかりか争い、奪い、虐げ、あるいは支配し、従属させます。そこに見るのは痛みと悲しみです。多くの悲しみを人は自らつくってきました。その中にあって、和解をもたらし、一つに回復する集まりがこの「キリストの教会」なのです。
その回復と和解の鍵はかしらなるキリストにあり、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めにともに生きることです。
その中で最も大切なことは、かしらがどなたかということを常に覚えることです。わたしたちはともすると自分をかしらとしやすいもの。その罪が人を分断してきたのです。しかし、いつも自分のためにいのちを捨ててくださったキリストの前にへりくだり、悔い改めをもってキリストに従うこと通してのみ、私たちは和解と回復の恵みにあずかることができるのです。
教会はキリストのからだだとなぞらえられていますが、からだには様々な器官があります。教会に呼び集められた者たちはそれぞれにキリストのからだの器官としてなくてはならないひとりひとりであり、それぞれに賜物が与えられています。この世は、どれだけ努力して力を身につけたのか、どれだけの能力やスキルを持っているのかということで人を評価します。自分で獲得したものならば、それは誇りとなり、プライドとなります。
一方、賜物は主が分け与えてくださったものであり、自分で得たものではありません。自分のためではなく、人のため、キリストのからだのために用いるために預けられたものです。カルヴァンは「神の御霊がわたしたちひとりひとりに分け与えられくださるのは、私たちがふたたび一緒に持ち寄るためである」と言いました。まさにその通りです。預けられたものなら、喜んで、使っていただくのです。
星野富弘さんの詩画は多くの人の心を打つ素晴らしい絵ですが、それを描いているのは彼一人ではありません。彼の手となり、足となり、あるいは絵の具を用意し、整えてくれる支え手があってこその絵なのです。どうしてもなくてはならないものなのです。同じように私たち一人一人にどんな小さなものであっても、感じる心から、持てる時間から能力まで、すべてのものが賜物なのです。
さて、地上の教会には様々な弱さや欠けがあります。私たちはあくまで赦された罪人の集まりに過ぎません。ときに私たちの罪ゆえに、交わりがキリストにふさわしくあらざることも起りましたし、起こります。ちょうど旧約の神の民が不信仰のゆえに、あるいは罪ゆえに犯してきたことと同じです。
だからといって、私たちはあきらめたり、所詮人間はなどと言い逃れてはなりません。たとえ、つまずくことがあっても、再び信仰をもって立ち上がるのです。問題は人の罪や弱さを見るのではなく、かしらなるお方を見上げて信頼するのです。そのとき、キリストが打ち砕いてくださった罪の支配から、恵みが支配するところに回復し、導かれるのです。