キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。コロサイ 3:16
教会とは何か?教会はキリストのからだであり、かしらはキリストだということを学びました。それでは教会の使命は何でしょう。救い主にしてかしらなるキリストの素晴らしさ、栄光を表すこと、そのために礼拝をささげることがその中心です。礼拝を意味することばは聖書の中で、「仕える」ということばと「ひれ伏す」ということばが使われています。私たちが全身全霊をもってこのお方のすばらしさを現すということであり、教会のいのちは礼拝にこそあるのです。
旧約の時代、選びの民であるイスラエル人の礼拝の中心は「律法と幕屋」でした。律法は本来、神のきよさとみこころを教え、人の道を教えるべき大切な基準でした。もとより、人はそれを守ることなどかなわない罪人です。ですから律法は、ただそれだけ守れと与えられたわけではなく、幕屋での礼拝と一つのパッケージとして与えられたのです。幕屋での礼拝は、繰り返し行われる「儀式」、いけにえを献げることが中心でした。
その儀式は主に5つありました。第一は全焼のいけにえ。すべてを焼いて献げることを通して、私のすべてはあなたのものですという全き神への献身をささげるものです。第二は穀物のささげもの。穀物は勤労の実です。丹精込めて作った一粒でも貴重なもので、働くことなくして収穫できません。また、しばしばききんや不作に襲われる自然の中で、古今東西、人は人知ではどうにもできないことへの祈願を神々にささげてきました。真の神への感謝をささげものを通して表すのです。第三は和解のいけにえです。ささげげものの最もよいところは神へ焼き献げ、残りの部分を食します。共に食べることを通して、交わりを喜びとするささげものです。第四、第五は罪のためのささげもの、罪過のためのささげもの。どちらも共通するのは、いのちの象徴である犠牲とする動物の血を献げることです。人の罪は、いのちの価をもってさばかれなければならないという神への恐れを告白し、贖いを信じる信仰によって赦される恵みを覚えるべきものです。
その儀式は誰しもが好き勝手に献げるものではありませんでした。祭司たちがそれを司り、神と人との間には絶えず仲介者を必要としました。もちろん、彼らの信仰は神に向かいましたが、幕屋にはいつも隔てられた幕の向こうにしか神を見ることはできなかったのです。
もう一つ、彼らにとって落とし穴になったことは、「儀式」が慣習に変わるとき、その本質はおろそかにされるということです。いつでも人間はそうなのですが、生き生きした信仰は失われるのです。
旧約聖書の礼拝の民の歴史の中には、いくつかの信仰復興―リバイバルの時がありました。不信仰ゆえに礼拝がおろそかにされるとき、民は落ちていきます。ときに周りの敵から攻められ、財産を奪われ、あるいは民が失われ・・・。そのような絶望の淵から神に呼ばわるとき、民の再建はいつも礼拝の再建、神の御前に立つことから始まります。そして、それは二千年の教会の歴史の中でも同様です。礼拝は慣習になるとき、教会は力を失います。そして、再び神に呼ばわり、礼拝の再建がなされるときに、民は再建されていくのです。
それでは、私たちの献げるべき礼拝はどのようなものでしょうか。ローマ12章では、自分自身を「供え物」として献げるようにと奨められています。礼拝する時間を献げるとだけではなく、全生涯をかけて、あるいはすべての時間、何をするにも私たちの思いと信仰と行動とが神の栄光を現すために献げるべきことなのだと教えられているのです。
安息日の律法は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」ですが。これを守ることだけに終始するなら、それはただの慣習です。同時に教えられているのは「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」という教えです(出エジプト20章)。安息日を献げることは礼拝です。同時に六日間、すべての時間、主にあってよき勤労をすることも礼拝です。同じことが「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10:31)と教えられています。それは礼拝生活と日常生活が分離しがちな私たちに問いかける大切な教えです。
そして、主の御前に献げるひとりひとりが集められるところが教会なのです。なお、弱く罪深い私たちは、自分中心に献げる礼拝をおろそかにする傾向を持っています。だからこそ、冒頭にあるみことばのように、互いに教え、戒め合いながら、キリストの恵みのみことばに教えられて礼拝の民として歩むとき、本当の喜びと感謝を生きるように招かれているのです。ひとりひとりがキリストの贖いを通して神にお会いし、自分自身を献げる礼拝の民としてともに招かれているのです。