そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。ローマ5:12
罪の本質は、神から離れ、「あなたより私」という原理で自分中心、自己中心に生きることだとお話ししました。自分中心に生きて、どこが悪いのですか。私のいのちは私のもの。一度限りの人生、大往生するまで思う存分生きたらいい。多くの人がそう考えています。一方で、自分中心に生きる人は決して幸せにはなれません。それも私たちは知っています。周りに迷惑をかけ、トラブルを抱え込むからです。
私たちのいのちは決して一人では生きられません。だから、仲良く、よいものを分かち合って生きたいと思います。けれど、そうは生きられないのはなぜでしょうか。それは、いのちの造り主である神から離れているからです。神との関係を織物の縦糸とすれば、人と人との関係は横糸です。横糸だけでは織物にはなりません。バラバラなままです。ところが、バラバラな横糸同士で織物を織りだそうとするから失敗するのです。
さて、罪を犯したアダムとエバは互いの間を隠し、互いの間に壁を作りました。第二次大戦中のことです。タイで日本軍に捕虜とされた兵士たちは、クワイ河収容所ほかの収容所に収容されて泰緬鉄道(タイとビルマを結ぶ鉄道。むしろDeath Railway、「死の鉄道)の名で知られる)建設などの強制労働に従事させられました。日本の造船所、炭鉱に送られた者たちも少なくありません。過酷な取り扱い、少ない食糧、熱帯での病気の蔓延。
極限に置かれた彼らは助け合ったでしょうか。いやむしろ、不信と憎悪、死と絶望が収容所を覆ったのです。その中でキリストに動かされた者たちによってなされた記録が「クワイ河収容所の奇跡」という本になっています。終戦になって解放された彼らは搬送される途上で負傷した敵兵を見つけます。ところが、その負傷兵は仲間から見捨てられていました。その窮状を見て、彼らは助けを差し伸べずにはいられなくなります。その時にはっきりわかったのは、「神は隣人を造られたが、敵を作るのは私たち人間だ」ということです。それを著者のアーネスト・ゴードンが語ってます。このことばは私たちが聞かなければならないことばの一つでしょう。私たち一人一人の心の中に巣食っている罪がそうさせるのです。どこまでいっても私たちは罪人なのです。
また、罪は連鎖します。私たちが最も大きな影響を受けるのは自分の親からでしょう。「三つ子の魂百まで」ということわざのように、とりわけ幼少期に受けたことはその人の人格をかたちづくります。残念なことに完璧な親などどこを探してもいません。そして、私たちは親から罪をも受け継ぐのです。親にほったらかしにされた人は、どこか寂しい、満たされない思いを心に植え付けられます。親の言いなりを要求された人は、自分で決めることへの不安を覚えます。うまくやることを要求され、いつも期待された人は、いい子を演じ、ありのままではない虚像とのギャップに苦しみます。愛され、受け入れられるという安心を何かで得ようと埋め合わせをしようとはかない享楽に身を投じてしまう人も少なくありません。私たちはそのような傷を持っているのではないでしょうか。
私たち人間は自分が受けたように、されたようにしかできません。それでもこんな思いだけはさせたくないと思いながらも、親になったときには、同じことが繰り返してしまうのです。そして、親から子へ、子からそのまた子へと世代を越えて連鎖します。
さらに罪は私たちひとりひとりや、家族の中の連鎖だけではありません。集団と集団、民族と民族、国と国という規模にまで、同じ原理が染みついています。イラク戦争のときに、我が家の子どもたちに何でこんなことが起こるのかと、わかりやすく説明しようと考えました。
「アメリカはイラクが危ないもの持っているだろう。見せてみろと言ったんだ。そしたらイラクは、おまえに見せる筋合いじゃない。いばってんじゃないとやり返した。そしたら、アメリカがどうしても見せないっていうんじゃ考えがある。爆弾落としてお前の国つぶすぞって脅かしたんだ。それでもイラクはイヤだと言い放ったので、頭にきたアメリカが空から爆弾を落としたんだ。それで、たくさんの人が死んだんだ。イラクの大統領は最後には逃げに逃げて、穴の中で捕まったんだ。」
「それで危ないものってみつかったの?」
「それがしらみつぶしに探したんだけど、結局出てこなかったんだよ。」
「えー。それじゃ僕らのケンカと同じじゃない。」
そうです。子どものケンカから戦争まで、同じ原理が働いているのです。思い通りにしようとする自己中心です。そして、それすら大義名分を掲げて、自分は正しいと主張し続けるのです。
あなたも、その罪の縄目の中に生きているのです。逃れられない罪の中にいる。その中で大きな傷を持ってはいないでしょうか。そこからの救いを神はイエスを通してくださったのです。その一歩は神から離れ、罪の中にいることを認めるところからです。あなたの傷や悩み、それは罪の縄目に縛られているからです。主よ。どうぞあわれんでください。そう祈るところに救いをくださるのです。