エリコの水が癒やされ、一方でベテルの子どもたちが熊にかき裂かれる。一見、不可解に思えるような出来事がここに出てきます。聖書の中には神罰、聖絶という出来事があります。そして、今も起こる争い、紛争、戦争、悲惨な、残酷な出来事を見るにつけ、私たちは何を覚えるべきでしょうか。
エリコの町は出エジプトの民が約束の地、カナンで最初に打ち破った町です。7日間、この町の周りを回り、ときの声を上げると、城壁が崩れ落ち、この町を聖絶しました。その時にヨシュアはこの町が再び再建されることのないようにと呪います。それがアハブの時代に再建されたのです。それは地理上重要の場所であり、オアシスの町だったからです。でも、水は悪かった。水は生命線。エリシャの始まりに、この町の人たちは彼に願い、いやされたのです。源よければすべてよし。それは私たちに心のきよさを願う大切さを教えます。
一方のベテルはヤコブが天のはしごを見て、信仰を新たにした大切な場所です。ところが、ヤロブアムが金の子牛を置く偶像礼拝の町になり、エリシャ、つまり神の人とそのことばを馬鹿にするのです。子どもがそうしたというのは町全体がそうであった現れです。子ども42人を失うという衝撃、それは神に対する恐れと悔い改めが求められたことでした。
この二つの町が問いかけるのは、申命記11章にでてくる契約のことばの結果です。「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。」エリコでは神の人エリシャを通して語られることに聞き従い、そこには祝福が与えられます。しかしそれから逸れていくベテルの町には呪いが下されました。マタイ3章では「どんな罪も赦していただけます。…しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」という厳しいことばがあります。主の御前に自らを吟味し、きよい歩みをと心新たにさせていただきましょう。