「主への熱心」のために力を尽くししたエフー、アラムに攻められ、苦しみの中で主に呼び求めた息子エホアハズ、その息子であるヨアシュ、彼らに共通するのは中途半端な信仰です。彼らは一方でヤロブアムの罪、偶像礼拝から離れないのです。
エリシャが死の病を患っていたところにヨアシュはやってきて、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びます。エリシャを頼りの綱としているのです。「弓と矢」、それは王としての戦いの使命です。そこにエリシャが手を置き、矢を射ます。それは「主の勝利の矢」、主の祝福を受け継ぎ委ねることを意味しました。
続いて、ヨアシュはもう一つのことを求められます。矢を取り、それで地面を打てと言うのです。今度は自分でやってみろということです。彼は3回叩いてやめてしまった。それを見てエリシャは激怒します。「あなたは5回も6回も打つべきだった。」今度は、自分で主の勝利を勝ち取るべく熱心に願えという意味です。エリシャはもうこの世を去ろうとしています。今度は自分の足で立つ信仰者として歩めということなのです。
同じことを求められたのはヤコブです。父イサクから長子の権利、祝福を奪い取った彼はベテルで神と出会い、ヤボクの渡しで神と格闘します。「祝福してくださるまで、あなたを離しません」と。今日、心に留めたい事は、「あなたはどうですか。どのように信じ、どのように願いますか。どのように自分自身の足で立っていますか。誰かが言ったからですか」という問いです。「私は」どのように主の御前に立つのかが求められてるのです。3人の王たちは、それがはっきりしないから中途半端なのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。…叩きなさい。そうすれば開かれます。」神は求める者を祝福してくださる、その信仰に「私は」立とうではありませんか。