「去る者、継ぐ者」1列王記19:14-21

 エリシャにとって召命の出来事は突然です。ようやく雨が降り、耕せるようになりました。12くびきもの牛を使う広い畑で暮らしている彼はこれから畑をやるぞ!というところでした。そのところにエリアが外套を着せ、働きを委ねるのです。神の選びは人にとって不思議です。でも、そのすべては恵みのわざなのです。
 彼は召命を受けると父母に別れをします。福音書にはイエスが「誰でも手に鋤をつけてから後ろを見るものは神の国にふさわしくありません」と仰います。「誰も二人の主人に仕えることはできません」(マタイ6:24)とも言われます。はっきりしていることは、人が主を第一とすることを求められていることです。彼は父母のところへ行って、「ひとくびきの牛を取り、それを殺して牛の用具でその肉を調理し、人々に分け与えてそれを食べさせた」とあります。大切な働きの道具である牛を農具で焼いて食べたというのは彼の決意のしるしです。私たちにとってそれは洗礼。すべてを捨てて従ったのです。その原点を忘れてはなりません。
 エリアは「行ってきなさい。私があなたに何をしたか」と不思議なことを言います。それは「行ってきなさい。私に伺いを立てる必要などありません。あなたを召したのは主ご自身です」と自ら主に導かれることを求めたのです。私たちにとって大切なのも御霊に導かれるということです。一人一人にペンテコステの御霊が注がれているのです。
 もう一つ覚えておきたいのは御霊は私たちを一つに導くということです。それぞれが御霊の導きをいただきながらも、必ず一致に導かれるのです。バラバラで誰が一番偉いのかと言い合う弟子たちが一つ群れとなり、ユダヤ人も異邦人も一つキリストのからだにしてくださった御霊は、私たちにも働いています。去る者、継ぐ者、同じ主に導かれたように、私たちも御霊に導かれることを求めましょう。