人の結末には3つのことがあります。一つは誰にも例外なく訪れる「死」、どのように迎えるのかを考える「最期のとき」、そして、「その向こう」です。アハブは反面教師です。主の恵みのお取扱いを拒み続けたその結末。それを対岸の火事のように見るのではなく、私たちの内側に潜む思いも探りましょう。
北王国イスラエルと南王国ユダとの関係はヤロブアム王朝、バシャ王朝、ジムリ、アハブの父オムリの時代に至るまで敵対関係でした。それが南のヨシャパテの3年目に協調関係に変わりました。「主の恐れが、ユダの周りの地のすべての王国にあったので、ヨシャファテに戦いを仕掛ける者はいなかった。」(2歴17:10 )という時代になったからでしょう。彼はアハブと姻戚関係を結ぶのです。
さて、アハブとアラムのベン・ハダテの間には、サマリヤの包囲からの主の勝利、アフェクでの恵みの大勝利を経てから戦いが3年ありませんでした。1年目は勝利の余韻がありましょう。2年目は様子見です。3年目はことを起こすというのは世の常です。彼はかつて自分たちの町であったラモテ・ギルアデを取り戻そうとします。そこに実績のあるヨシャパテをもてなし誘うのです。ヨシャパテは主のことばを伺うことを求め、アハブお抱え預言者はよいことだけを預言します。一方、ミカヤは真実の預言を語ります。変装して戦いに臨んだアハブは不意の矢を受けて死にます。それは人の目には「たまたま」ですが、主の目にはさばきでした。
彼は死を避けました。でも死を免れません。最期のとき、「生きたように死んで行く」のです。主を否み続けた生涯の通りです。さらに、彼の子孫はやがて根絶やしにされ、その先にも望みがありません。彼の結末。それを見て、私たちも我が身を正さなければなりません。それは、何度も恵みを受けながらも、そそのかされて惑わされ、主を否み続けた結末です。いつでも立ち返ることを主は求めておられるのです。