この箇所の中心は私たちが信仰によって神の子どもとされることです。しかし、それまでは律法の下に監視され、厳しい養育係のもとに閉じ込められていました。それはさながら巨人の星の星飛雄馬。厳しい父の果たせぬ夢を託されて野球に打ち込む。でもそこにはプレイする喜びはなく、いつもあるのは父の視線と呪縛。してはならない、しなければならない、できたできない。そして、それは自らを責め立て、人をさばき高ぶり見下す。
そこから、信仰によって神の子どもとされた。キリストを着たのです。パウロはこの表現をコロサイ書でも使いました。古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着た。着るということはとても象徴的な表現です。人が最初に身に着けたのは自らの罪の恥を覆うイチジクの葉でした。「わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(ゼカリヤ3:4、5)という約束があります。それはそれにふさわしく内なる人も整えるのです。
さらにその約束は「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」と続きます。これはこれまで人を縛っていた大パラダイムシフトです。罪の世界の合い言葉は「名を上げよう。」バベルの塔を築こうとした時と同じです。そのために階級と差別、虐げと搾取は止むことなく、神なき世界は決して一つになりません。いつも自分の利益が第一の世界だからです。
ところが、キリストの十字架の贖いを信じる信仰をともにするところでは、そのすべての壁が取り払われるのです。私たちは聖餐において一つパン、つまりキリストを分け合います。それは一つであるしるしです。その度その度、確認し合うのです。それが最も身近なところから、世界にまで及ぶ救いが私たちに与えられた神の子どもの恵みなのです。