6月の大掃除では、コロナで活動が停滞していたところから動き出し、食堂・台所と玄関の整理と掃除をしてスッキリしました。一方で牧師室はそのまま。狭い部屋には私しか立ち入らなくなったことをいいことに、散らかし放題、最低限、困りはしないけれど、片付かない部屋になっていました。
それも限界に来て、重い腰を上げて整理と掃除をしています。各種ニュースレターなども整理し直して、ご覧いただけるようにしました。その作業というもののほとんどは、「いるもの、いらないもの」のふるい分けです。「また、使う時があるかもしれない」ものでも、それが必要になったときに取り出すことができなければないも同じです。
整理が上手な人がいます。入れる場所をちゃんと決めて、そこに入らないものは捨てる。とりあえず投げ込んでおく場所を作り、1ヶ月、1年使わなかったら捨てる。1つ買ったら1つ捨てるなど、ルールを作っているという話も聞きます。マメで、キレイ好きな人ならできるかもしれませんが、なかなかそうはいかないものです。断捨離という言葉も流行りました。終活の中にも片付けは入っているでしょう。残したものはサッパリ判断つけてくれますから心配ありません。問題は今です!身の周りの様子と心の状態、仕事の出来というのは大抵比例します。達人の仕事場は整っているもの。
聖書の中には「汚れた霊は人から出て行くと…さまよって…『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで…自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。」(マタイ12:43-45)とあります。「絶えず、心を見守れ」というメッセージです。身も心も主の御前に整ったものとして献げたいものです。