ホセアは自分の結婚関係という経験をして、神様の愛の大きさというものを伝えることを命じられた預言者でした。2章では、姦淫の受け入れ難い、赦し難い思いが出てきます。そして、神は「垣根を巡らし、石垣を積む」と言われます。アハブにはさばきの宣告とエフーによる謀反、ヨアシュにはエリシャを遣わして、矢を射、矢を打つというしるし。すべてが神の恵みの賜物であったことを忘れてしまうという辛く悲しい思いを語ります。
しかし、そのような者を新しい契りをもって取り戻そうと主は言われます。立ち戻る原点はエジプトです。奴隷であり、虐げられ、自由もなく、烏合の衆であった彼らを神は不思議な過越という出来事を通して、海を分けて救い出され、神の民とされました。ヨルダンを渡って最初に取った町はエリコです。しかし、その始まりからアカンが聖絶のものを取るという罪を犯します。それがゆえに石打ちにされたのがアコルの谷です。そこが「望みの門」となり、過去の罪は望みに上書きされ、もはや思い出されることはないというのです。
新しい契りは、ホセアが妻ゴメルを買い戻すことをして現されます。私たち人は過去を思い出さないわけにはいきません。傷に触れると、芋掘りのように次から次へと引きずり出されて「やっぱり赦せない。やっぱり受け入れられない」という思いを持つのです。しかし、「あえて」受け入れ赦せと言うのです。
やがて、イスラエルの子らが「王ダビデを尋ね求め、終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく」とは、キリストのゆえです。ホセアの払った代価以上に、十字架という命を「あえて」払い、罪と死に勝利してよみがえられた。そのすばらしさ!「望みの門」とは、キリストご自身が「羊の門です」と仰ったように、永遠の契りをもってご自身のもとに迎えてくださること。剣も弓も戦いもなく、平安のうちに迎えられる。なんと感謝なことでしょうか。