カルバリの十字架。受難週を過ごした私たちは、それにふさわしい歩みをしているだろうか。それにふさわしからざることがあるならば、それは愛の不在。それはカルバリの愛から離れているしるしです。さて、復活の記事は福音書によって異なります。マタイの福音書では、女たちと番兵、祭司長たちに焦点が当てられています。
番兵たち。彼らは、祭司長たちに遣わされます。墓の石を転がし、その上に座った天の使いを見て、震え上がります。同じことを見ていながらも全く違う反応をするのは女たちです。女たちとて、大きな驚き、「恐くはあったが」と記されています。そして、どちらも報せに走ります。
祭司長と番兵たちは、口を封じ、緘口令を敷きます。人間というもの、自分に不都合なことが起こると、その真実を確かめることよりも、どんな手段を使ってもことをもみ消し、つぶそうとするものです。一方、女たちに報せを受けた弟子たちはどうでしょう。エマオへの途上の出来事、弟子たちに現れた出来事、その場に居合わせなかったトマスに現れた出来事。いくつかのしるしをはっきりと見ます。しかし、いざガリラヤでイエスに会うと、礼拝しながらも、ある者は、疑ったとあります。
この後、イエスはご自身の権威を宣言なさり、弟子たちに新しい使命をお与えになり、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われます。己の内には何もない。どこまでいってもそうです。見ていながらも疑いが混じる。そんな人の熱心や努力ではなく、一切の権威をもっておられるイエスがともにいることこそ、私たちを立たせる力です。そのことばを慰めと力として進もうではありませんか。