「あなたの王は誰か」マルコ15:1-15
祭司長たちは夜が明けるとすぐにイエスをピラトのもとに連れ出します。ピラトが尋ねた問いは「あなたはユダヤ人の王なのか」でした。もし、そうならば、ローマに対する反逆罪です。イエスはそれに対して、「あなたがそう言っています」と自ら主張なさらず、ピラトにお預けになりました。
人にとって「王であること」、「権威を持つこと」、それはいつも争い合い、主張し合います。10章ではヤコブとヨハネがイエスに「ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」と願い、他の10人は二人に抜け駆けだと腹を立てます。彼らだけではありません。私たちも自分の小さな場、教会、会社、夫婦、家庭の中で、自分の思い通りにならないと気が済まず、不平不満を持ち、つぶやいているとしたら、それは王になりたがっているしるしです。
さて、ピラトは総督、ローマの役人です。ローマへの貢ぎをきちんと集め、民衆の心をつかんで平定しなければなりません。それで祭りの時の恩赦を持ち出します。ところが、彼の誤算でした。イエスではなく、バラバをと人々は祭司長たちに扇動されたのです。群衆を満足させるために、つまり自分の保身のためにイエスを十字架に引き渡します。
ピラトにしろ、祭司長たちにしろ、群衆にしろ、みなイエスを十字架に追いやったのは「王の拒否」です。王の王、主の主であられるお方を拒みました。自分が自分の場で王でいるために、邪魔者は消す。それは、人類最初の殺人、カインのアベル殺しのときから変わりはしません。今ひとたび、「私の王は誰か」、問うてみましょう。いつも自分が王になりたがっていないでしょうか。この十字架の主こそが「王の王、主の主」です。あなたにお従いします。そして、その足跡に従い、私も僕として生きます。そう祈りを新たにしようではありませんか。