「あわれみゆえに私の民」ホセア1:1-11

 ヤロブアム二世の治世、アモスはさばきを告げることを通して悔い改めを迫りました。ホセアは同じ時代を生きた預言者として、自らの経験、結婚生活を通して語ることを求められました。ホセアにも感情があります。苦しみ痛みあるいは悔しさ、とりわけ彼が求められたのは赦しとあわれみです。神の求めは「姦淫の女と姦淫の子を引き取れ」という命令です。ゴメルは不品行なあるいは素行の悪い女。しかし、あえて妻として娶れというのです。私たちはみな幸せを期待して結婚します。しかし、彼は最初からクエスションのつく結婚を求められ、それは早々裏切られていきます。
 最初の子に付けるように命じられたのは悪名高きイズレエル、罪と血が叫ぶ地名です。二人目、三人目の子は「彼に…生んだ」とついていません。姦淫の子であると思われます。その子らには、ロ・ルハマ(あわれまない)、ロ・アンミ(私の民ではない)、ロというのは否定詞です。そのような名を付けるよう命じられるのです。呼ぶ度に傷に上塗りするような痛みを覚える名が課せられていくのです。
 そして、語られるのは、エフーの家、イスラエルに対するさばきのことばですが、一方で、「イスラエルの子らの数は、 量ることも数えることもできない 海の砂のようになる。」 という救いのことばが語られています。アブラハムに誓われた契約のことばです。神はそれを決してお忘れにはならないのです。
 しかも、それは一人のかしらによって一つに集められる。それは「ナザレのイエス」です。「弓、剣、戦いあるいは馬。騎兵によって救うのではなく」、何によって救うのかと言ったら神のひとり子、主イエス・キリストの血によって救うというその日がここに来ると預言されているのです。すべてが新しくされる救いの日、だから、ロがとれて、「わたしの民」、「あわれまれる者」と呼ばれる。神の払われる大きな痛みと代価ゆえに赦し迎えられるのです。