「いのちを救う」マルコ3:1-6

 イエスは安息日の麦畑でパリサイ人と対決なさった後、再び入った会堂で、片手のなえた人のいやしを巡ってパリサイ人と対決します。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」という問いかけです。

 人は自分の手で働くということを喜びとします。誰の役にも立っていない、誰からも必要とされていないということほど辛いことはありません。からだは生きてはいても心が死んでしまいます。この片手のなえた人もそうでしょう。ところが、「するか・しないか」のことだけしか考えていないパリサイ人はイエスの問いに思考停止に陥って答えることができず、黙ってしまいます。

 イエスはその頑なさに怒りました。イエスが怒ったというのは言葉としては福音書の中でこの箇所だけに出てきます。旧約には「うなじのこわい」という言葉が出てきます。頑なさを指すことばです。ヨハネ3章にはイエスを訪ねたニコデモが、「人は新しく生まれなければ神の国をみることができません」と言われますが、どこか新しくなれない頑なさが隠れています。

 さて、片手のなえた人へイエスは「手を伸ばしなさい」と招きます。伸ばせない、動かせない手です。それを動かすためには、何が必要なのでしょうか。イエスの招きに応える信仰です。安息日、それは「するか・しないか」の日ではなく、私たちが頑なな心を新たにする日です。そして、イエスに手を伸ばすならば、その救い、それはたましいの救いをいただいて、平安と希望をいただく日なのです。いつまでもうなじのこわい生き方ではなく、素直に手を伸ばし、いのちをいただく歩みをしようではありませんか。