春を迎え、それぞれ新しい務めをいただいきます。「精一杯がんばります」と私たちは思い新たにスタートしますが、上に立つと、急にえらくなったような振る舞いをしたり、抱え込んで疲れたり、燃え尽きたり。神から離れては、周りとの比較や関係によってしか物事を考えることができません。一方、神から与えられた立場や務め、そう受け取る者はキリストの心をもって仕えます。
ここで、「キリストにあって」一致と謙遜に生きるように進められています。人は、アダムとエバの堕落以来、人と人との間に壁を作り、敵を作り、一致を妨げます。手を引き身を引き、丸く収めようと思っても、白黒つけて裁きあっても、妥協して折り合いを付けようとしても、「つぶやき、疑い」を捨てることができません。なお、「人を自分よりすぐれた者と思う」などということは受け入れがたいのです。
山上の説教で私たちは「さばいてはいけません」という主イエスの教えを学びました。それは自らが神にさばかれるべき者であることをわきまえ、上から視線で人をさばくことへの戒めでした。パウロはここで、主イエスの謙卑、神のあり方を捨て、自分を捨て、十字架の死にまでも従われて主イエスに従って生きることを私たちに進めるのです。
そもそも、私たちのそれぞれの務めは自分で選んだものではありません。どんな務めであっても、それが家族の中でも、職場の中でも、地域の場の中でも、神が与え委ねてくださった務め。ゆえに与えられた志しとは、キリストの心をもって仕え生きることです。もちろん、様々な困難があり、忍耐が試されることでしょう。しかし、そこでは人を見ずして、キリストを見、つぶやきと疑いを捨てて仕える喜びに献げようではありませんか。