「もし○○であったなら、そのとき私はカルバリの愛を全く知らない。」エミー・カーマイケルの詞です。彼女は心が騒ぎ、眠れぬ夜、自分の心に問いかけ、ことばに表しました。彼女はそのすべての根っこは愛の不在だと気づきました。
さて、イースターの朝早く、女たちは夜明けを待って墓に向かいました。地震とともに主の使いが石を転がし、それを見た番兵たちは、恐ろしさのあまり死人のようになってしまいます。一方、女たちは御使いのことばを聞き、よみがえりのイエスにお会いします。
番兵たちは祭司長たちに一部始終を知らせると、金をもらって口封じをされます。女たちは弟子たちに知らせに走り、イエスは彼らにお現れになります。そして、指示された山に向かい、新しい使命をいただいたのです。
同じことを見ていながら二つの応答。あくまで心を閉ざすか、イエスに従うか。人を動かすには3つが必要と言われます。「焦点を絞り込んだ内容。正確な情報。内容にかけるあなたの意思と情熱」。よみがえりのイエスの復活が確かであることを見た弟子たちは焦点がハッキリしたのです。一方、罪に歪んだ目でものごとを見続けるなら、そこに生まれるものは不平、不満、そして愛の不在です。
弟子たちにハッキリしたのは、イエスにすべてを従える権威があるということです。人間がどうやっても乗り越えることができない罪と死に打ち勝って、今も生きておられる。ならば、この方のいのちを捨てる愛に、従うか。それが彼らに問われたことでした。
あなたに問われているのは、その愛を知らない歩みをし続けるのか。心新たにイエスに従い、愛に応える歩みをするのか。さあ、十字架と復活のイエスから目を離さないで、焦点をハッキリと歩もうではありませんか。