「それでもなお拒むのか」マルコ3:20-30

 イエスの宣教の始まり、それは神の国の到来を知らせる祝福のわざが行われました。一方そこには反発・拒絶が起こります。

 イエスを連れ戻しに身内の者たちがやっています。マリヤは処女降誕から始まって、神のなさる不思議なわざをその身に味わったはずです。父ヨセフは亡くなっていたと思われますが、兄弟ヤコブは後の初代教会で活躍しますが、今はまだわからない。それは、公生涯までの間、ひたすら人として生きられたということでしょう。

 家族、そこには一つのシステムとして常に均衡を保とうとする力学が働きます。家族は素の自分が出る場、ですから罪がもっとも顕著に表れる場です。外ではいい顔していても家族はごまかせません。でも、その家族は互いに不満を抱いても、均衡を保とうと忍耐やがまんが働きます。切っても切れない家族、まして小さな町ナザレで、噂は広まり、行きづらくなる家族連れ戻しに来るのです。受け止めきれないのです。

 律法学者たちはさらにエルサレムから下ってきて、『「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」』と言うのです。イスラエルという選民意識の中、社会の秩序を乱す危機と映るのです。内容の善し悪しではありません。イエスは至極真っ当な答えをします。サタンがサタンを、悪霊のかしらが悪霊を…それを超えた権威と力を持っておられることを宣言するのです。

 どうして、人はここまで頑ななのでしょうか。人には脈々営々と罪の血が流れているのです。しかし、イエスはどんな罪をも赦されると言います。そして、そのためのご自身を捨てます。一方、「聖霊を冒涜する者は…」と言われます。それはみ声を聞きながらもなお拒み続ける頑迷さです。あなたはどうでしょうか。心砕いて赦しと恵みを受けましょう。