「ためらいを捨てよう」使徒22:1-16

 誤解と迫害とを受け、私刑寸前のパウロでしたが、ローマ軍の千人隊長が事態収拾のために乗り出して間一髪救い出されます。物差しの違う人たちの中にあって、かつては自分もその人たちの側にいた彼がどのようにしてキリスト者とされたのかを証しします。

 パウロはその生まれ、教育、経歴、すべてユダヤ人のエリートでした。その熱心さのゆえにキリスト者を迫害するほどでした。それが砕かれるのは、主に打たれ目が見えなくなり、手を引かれざるを得ないところに置かれたときです。打たれる経験、捨てる経験なくして、人間は人生は方向を変えることができません。先週一人の牧師の信仰の始まりを聞きました。ハンセン病の療養所を訪れるようになったとき、出されたお茶と饅頭を口にできなかった自分の心の狭さと罪深さに打たれたことが求道の始まりだったそうです。

 彼は主に出会い、アナニヤの手引きで新しい歩みをはじめようとしますが、「なぜ、ためらっているのですか」とあるようにためらいがありました。なぜでしょう。それは過去を否定したくない思いからでしょう。過去を捨てるならば、まるで自分自身が否定されるように思うからです。一方でこの後のパウロを見るならば、すべての経験が捨てるどころか生かされる。役立つように導かれます。また、周りがどう見るか。かつてのユダヤ人には裏切り者扱いをされ、キリスト者には疑われる。私たちは「地震てんでんこ」という言葉を学びましたが、周りに振り回される人生は結局死ぬ最後までそうです。ここに「あなた」が問われるのです。

 さあ、そんなためらいを捨て、あなたも自らを問い直し、ためらいがあるなら御霊の導きに従い、それを捨て、主が導かれる新しい歩みに進もうではありませんか。

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