人にとって食べることと記憶、心に刻むことは不可分です。日本人も年中行事とともに食べることで季節や意味を覚えてきました。また、人が集まるところに食あり。交わりを表すものでもあります。一方で食べた食べない、美味しいまずい、不公平だ不満だと不和が起こるのもまた食べ物に関わることです。
初代教会の最初の問題もそうでした。毎日の配給のことでなおざりにされた者たちの不満が起こります。多様な人たちが集まったコリントの教会では「食事のときに、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつ」だというのです。私たちの聖餐はどうでしょうか。どのように心に刻み、交わりを表すものでしょうか。
第一に聖餐は悔い改めを新たにするところであり、第二に十字架に帰るところです。聖餐のとき、「自分を吟味してその上でパンを食べ…」と招きがあります。心の中のことは人には見えません。しかし、パンを口にするとき、必ず自らの意思を伴います。それは自らの罪に向き合い、十字架の贖いを信じる信仰告白を見えるかたちで表す主の招きなのです。それなくして口にすることは決してできないでしょう。
第三に聖餐は一つパンを分け合うことを通して私たちがキリストにあって一つであることを告白することです。人を一つにしようとするために、人は様々な手段を遣います。ときに強制、ときに暴力、ときにお金…。しかし、私たちは十字架の主のもとに一つパンを分け合うこと、キリストの前に頭を垂れることをしてのみ一つとされるのです。そこに表すのは、キリストに従い、互いに赦し合い、愛し合う交わりです。その招きの度ごとにキリストに従うことを新たにしましょう。