かつての古い私たちは「本来神ではない神々の奴隷でした。」しかし、恵みによって始まったはずの信仰生活が古い生き方に戻ってしまう。それはさながら放蕩息子の兄息子の言い分です。無条件で赦され受け入れられる。それはあまりにも虫のいい話。ここに戻ったからには守るべき戒めがあるというようなものです。パウロは「あなたがたのために労したことが無駄になったのではないか」と心配しています。
もろもろの霊に縛られた逆戻りする奴隷、それは律法主義だけではありません。偶像の迫るものが私たちを誘います。それは自らの情欲が生み出すものです。砂漠の教父アントニウスは世から離れて修道生活をしても、心の中から出てくる思い、食欲、姦淫・不品行、貪欲、不満足、怒り、落胆、虚栄心・プライドの7つからから逃れられないと言いました。そして、それは私たちがどれだけ神から離れているのかを表すものです。
「しかし、今では神を知っているのに」それを言い直して「いや、むしろ神に知られているのに」とパウロは言います。私たちはキリストのご真実、十字架の贖いの恵みを知って、いや、むしろそこに導かれて救いをいただきました。神が先行して私たちを知っていてくださるからです。神に知られているということは神が愛をもって私たちを導いてくださり、「アバ、父」と親しくともに生きてくださっておられるのです。
ところが、逆戻りしてしまうことがある。それは、染みついた古い生き方が残っているからです。「たまたま、運良く、ラッキー」と口にするようなとき、とっさに出てくることばに隠れた本心が表れるものです。神に知られ、恵みの贖いに招かれ、それを信じて生きる者になった。もはや古い人の奴隷ではない。新しい神の子とされた。父の恵みに導かれて歩もうではありませんか。