エルサレム入城、そして宮きよめ。主がなさったこと、教えたことは「祈りの家」のあるべき姿です。しかし、それは民の指導者たちには看過できないこと、それで「何の権威によってこれらのことをしているのか」と問いますが、イエスはそれをかわします。そして語ったのがこのたとえです。すぐさま彼らは自分たちを指していることに気づきます。いったい何を問われたのでしょう。
ぶどう園、それはイスラエルの民を意味します。始まりはアブラハムに溯ります。罪の世にあって、彼らに与えられた使命はきよい生き方を通して神の栄光を現し、愛の奉仕をもって周りの祝福となるべきこと。そのような実を結ぶ民として、奴隷だったエジプトから連れ出され、荒野で養われ、この地を相続地として与えられたのです。
ところが彼らはイザヤ5章に書かれるように「酸いぶどう」になってしまいました。「主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。」そして、周りの祝福どころか、自分のことしか考えないような民です。主はしもべである預言者たちを何度も送って悔い改めて立ち返るようにと迫っても、拒み続けたのです。
主が遣わしたのは一人息子。それはイエス様ご自身のことです。ところが彼らは拒み、殺します。どうして、ここまで頑なななのでしょうか。人の罪が根深いからです。みな自分勝手なのです。神の祝福や神の使命に生きるより、自分を選ぶのです。しかし、そのように拒み続けたところに、神がイエスを通して新しいことをしようとされていることを語ります。イエスの十字架によって贖われた者は、新しい霊の家、つまり神の教会の一員に加えられ、要の石であるキリストによって結び合わされるのです。それは、あるべき姿に帰ることです。あなたもこの要の石イエスによって回復をいただき、新しい使命に招かれているのです。