「まもなくかなたの/ながれのそばで/たのしくあいましょう/またともだちと/かみさまのそばのきれいなきれいなかわで/みんなであつまる日の/ああなつかしや」。(聖歌687番)
この聖歌をときどき思い起こします。小学生の頃、毎年夏のキャンプは名栗川バイブルキャンプ場でした。そこで歌ったのです。川へ降りていくと、この歌のようにキラキラしたきれいな川で川遊びをし、夜は焚き火を囲んでキャンプファイヤーをしました。本当に楽しかった「なつかしや」です。
この聖歌は、黙示録22章の新天新地に私たちが復活の新しいからだをいただいて迎え入れられるときのことを書いています。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」(黙示録22:1-2)
この世のいのちには限りがあります。若さも力も、富も知も、過ぎ去っていくものに過ぎません。しかし、この世だけを生きていると、それを忘れて執着します。しかし、私たちの迎え入れられる天は永遠です。「まもなくかなた」を仰ぎ見ることで、私たちが真に大切なもの、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(1コリント13:13)を見分けるのです。
そして、この世と永遠は繋がっています。今、この場が永遠の「まもなくかなた」であるように生きるのです。教会はその場です。私たちの交わりがすべてのものから自由にされ、様々な隔てを乗り越え、互いの理解と愛の配慮に感謝を覚え、楽しい、実り豊かなものとなっていくように。それは誰かではない「私」がつくるもの。「まもなくかなた」を見上げつつ。