「みんななのか、私なのか」マルコ3:7-12

 ガリラヤから始まって、続々とイエスのもとに人々が集まります。その目的はいやしです。この群衆、イエスのところに行くなら、病がいやされる。みんながイエスを自分たちにとって都合のいい、願いを叶えてくれる存在にしようとする。いわば偶像化です。

 出エジプト記では、「金の子牛事件」が起こります(32章)。民は出エジプトの時、神の輝かしいみわざを見ました。それにも関わらず彼らは金の子牛を作り、拝むのです。一方、モーセに与えられた律法、十戒の最初の3つは「神を神とする」ための戒めです。神を神としないところでは、民が金の子牛を作らないではいられなかったように不安なのです。生きていけないのです。だから偶像を求めます。そのような願望の表れが偶像です。

 そんな人々の思いとは裏腹に、イエスの前にひれ伏したのは、汚れた霊どもでした。『イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった』とあります。押し迫る群衆とは好対照です。

 弟子たちが真にイエスにひれ伏したのは、十字架と復活の後のことです。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した」とあるこの「礼拝」と「ひれ伏す」は同じ言葉が使われています。イエスの御前に、何も申し開きも何もできない。ただ黙してひれ伏すことしかできないのが、私たちだということです。そのときには、「みんな」はありません。「私」が一人、神の御前に立たなければならないのです。そして、「私はあなたの御前にただひれ伏し、お従いします。」と明け渡すのです。

 あなたの信仰、それは、神に願うばかりの信仰ですか?それとも、そのお言葉にひれ伏し従う信仰ですか?