「やみから光へ」1ペテロ2:9-10

 私は何者か。ペテロは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」だと言うのです。「選ばれた種族」それはアブラハムから始まります。アブラハムの召命を意味するところは第一に、今までのあり方を捨てること、第二に、主に全面的に従うこと、第三に、そうすれば彼は祝福されること、第四に、世界の中で彼を用いることでした。世は罪の世、滅びゆく世、すべてが裁かれるべき世です。その中で神に選ばれたということは主のあわれみと恵みのゆえです。

 神が裁くべき世で彼を選んでくださったのは、彼から始まる信仰の民を世にあって用いるためです。奴隷であったエジプトから救われた民と神は契約を結ばれます。それがこのことばの背景です。彼らに委ねられたのは律法。それは聖い神の基準です。一方、人はそれを守れません。ですから幕屋での礼拝、悔い改めと贖いが常にセットです。それが王である祭司、聖なる国民ということです。

 異邦人は神の民でなかったのに、主イエスの十字架の贖いのゆえに、神の民に加えられました。今や、救いはイスラエルだけのものではなく、全世界の主です。そこで委ねられたのは「地の塩、世の光」として、キリストのこの恵みあわれみを証しする務めです。そして、それはごく小さな、日常の中に生きる信仰です。

 神の救いの方法、それは人が神に造り変えられることを通して、社会に全世界に恵みを与えるのです。人の歩みは不信仰な歴史です。しかし、神の恵みはそれより大きく、赦しと恵み、あわれみと愛は尽きず、人を決して捨てられることなく歩んだ。それは歴史が示す、神の驚くべきみわざです。今、こんなに小さな私に何ができる。そう思う私たちに委ねられたのは世の光となることです。