信仰によって神の子どもとされた。しかもそれは、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もない。みな一つ。それは、罪に分断された世界を変える大きな神の救いのみわざです。それを「つまり、こういうことです」とパウロはまとめます。
私たちも、かつては「この世のもろもろの霊の奴隷となっていました。」これはものごとのイロハ、原理・原則を表すものです。悪魔が誘う霊の奴隷が私たちの生き方となっていました。ガラテヤ書のテーマである律法主義、「してはならない、しなければならない、できた、できない」の世界のみならず、何かをすることで認められ、満足すること活動主義、あるいは物質主義・拝金主義。奴隷は自らの頭で考えません。されるがまま、そうされていた。それが私たちの過去です。
「神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」それが指すことはインマヌエルの主。私たちと同じ弱さや痛み、悲しみを知っておられるということです。人は同じところに立った者だけにしか心許すことができません。十字架のみ苦しみ、身動きできず、涙を拭うことすらできない。地上の生涯のすべてにおいて私たちと同じところに立って今も私たちの悩みを知ってくださっておられるのです。
それは私たちを十字架で贖うためでした。そして奴隷から神の子としてくださるためです。奴隷に自由はありません。命令と服従のみです。もちろん、神の子にも、ときに懲らしめや訓練、試練があります。しかし決定的に違うのはそこに愛の関係がることです。あの放蕩息子のように無条件に受け入れられるのです。それを表したのが「アバ、父」という呼び名です。アバとはお父さん、英語のダディーです。子どもが全幅の信頼をもって疑いなく呼びかけ、受けとめられる。なんという幸い。恵みでしょうか。