「イエスは誰なのか」マルコ1:9-13

 ヨハネは「罪の赦し」のバプテスマを人々に迫りました。それはバプテスマのヨハネだけではなく、異邦人の改宗者に、あるいは修道生活をする集団への入会などにも行われました。ヨハネのバプテスマはヨルダン川に出て行かなければなりません。外面上のしるしではなく、心からの信仰を求められることでした。

 また、それは「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」です。人に分け隔てはありません。すべての人が神の御前に同じ罪人であることを認めなければなりませんでした。そして、人を隔てる壁を乗り越える一致と平和が目的です。自分中心の生き方、プライドや誇りから神の方に向きを変えた再出発と告白のしるしとしてのバプテスマ、それが水のバプテスマでした。

 聖霊のバプテスマ、それはイエスの御名によるバプテスマです。十字架の贖いはイエスが約束した助け主、真理の御霊が導く救い。そして、それに続くのは主の聖餐です。聖餐の度に私たちは「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば」と自らの吟味を迫られます。その度、罪を悔い改め、ひざまずいて思いを新たにすること、そして、繰り返し繰り返し、主の再び来られる日まで聖霊に導かれて御前を生きていくこと。それが聖霊のバプテスマが与えられるということです。

 そのイエスご自身が洗礼をお受けなりました。罪のないお方があえて、罪人である私たちと同じところに立ってくださったということです。その時、天が裂けました。いままで隔てられていた天と地が繋がったということです。しかも、地が届いたのではなく、天の側が裂けたのです。今や私たちのこの世に来てくださったのです。その招きに信仰をもってお応えしようではありませんか。