キリストの愛のゆえに私たちは「主」、あるいは「王なる主イエス」と呼びます。イエスが第一のお方であるからです。イエス様は問いかけます。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。」(35)エルサレムの入城、群衆はイエスこそがキリストだと迎えたのですが、律法学者たちには認められないことでした。
イエス様は詩篇110篇のみことばを引用して答えます。ダビデが来たるべき救い主を「わたしの主、主人」と呼んでいたということを言うのです。もちろん、イエス様はダビデの子として生またのですが、律法学者たちを代表して、救い主に抱いている姿勢の間違いを教えているのです。ダビデ自身、自分の罪の姿に気づかずにへりくだれない愚かな王でした。彼は王であることを利用して、「思い通り」にことを謀ったことはよく知られています。バテシェバ事件です。ダビデはそのかたくなさを砕かれて「私の主」と呼んだのです。
律法学者のかたくなさは、私たち人のかたくなさの代表です。ダビデの子、それは神が選びの民を決して捨てないという恵み象徴です。問題なのは人の意識です。神のなさることをへりくだって受け入れる素直さがあるかないかです。後にパウロは「私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」(ピリピ3:4-9)と言いました。
人が拒むもの、それは自らの内側にあるプライドであり、誇りです。それを取り払うことの何と難しいことでしょうか。罪の根が深く自分に住み着いている。そして今、目の前に真の救い主がおられるのに拒み続ける。そのようなことをするのが愚かな私たちの姿です。十字架で身代わりの贖いをなし、よみがえって神の右の座に座しておられるお方、この方こそ主。このお方こそ私の王。へりくだってお迎えしようではありませんか。