初代教会の交わりは、物心ともに支え合ういわば天国の先駆けのようでした。バルナバ(慰めの子)という名で知られるヨセフも畑を売り献げます。彼がそのように呼ばれるようになったのは、この後の彼の活躍からも窺い知ることができます。
一方、アナニヤとサッピラも同じように財産を売り、献げたのですが、彼らのホントの動機は自分たちのためでした。「人にほめられたい。人に認められたい」と自分の栄誉を求めるものであったのです。ですから、その一部を残して全部献げたと偽ったのです。求められるのはレプタ銅貨を献げたやもめ(ルカ21章)のような信仰ではないでしょうか。彼女は生活費のすべてを献げました。それは主が必ず養ってくださるという確信なければできません。そして人ではなく、神に喜ばれることを求めたのです。そこには真実があります。
人の目は表向きを取り繕ったり、体面を保つことができましょう。しかし神の目をごまかすことはできませんでした。隠れた思いはどこかで露わにされ、偽りの代償は刈り取らなければならないのです。ですから偽りが明るみに出て、主が打たれたときに、一同に恐れが生じたのです。それは決して人ごとではない。私たちも偽りの心の誘惑を受ける弱いものだという自覚でしょう。ことは重く受け止めなければなりませんでした。
そう、私たちは常にホントの動機を吟味しなければならないのです。隠れたところに自己満足や自己保身、よく見せたいという虚栄や偽り、親切に覆われた支配欲などが容易に入り込んでくるからです。隠れたところで見ておられる天の父と、私たちの内に住まわれる聖霊に導かれて、悔い改め、真実に愛ある歩みを築こうではありませんか。
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