この箇所はキリスト教会の歴史の中で様々な解釈と理解がなされ、教会は何度も揺さぶられてきました。宗教改革者のルターは次のように解釈しました。神は世界を支配するために二つの剣をお与えになった。ひとつの剣は信仰の世界を治めるために教会に与えられた。もうひとつの剣は世界の秩序を治めるために国家に与えられた。これが政教分離の始まりです。一方、それは「信仰告白の事態」だと考える人たちもいるのです。どこまでがそうで、どこからがそうでないのでしょう。
日本の教会がそれを問われたのは戦時中です。世は国を一つにするときに旗頭を立てます。バベルの塔がその始まりです。そのとき権力者・支配者は人民のためではなく、自らの実現のために支配します。戦時中、宗教思想管理をし、特高(特別高等警察)がついて回りました。教会はそのとき、主イエスを第一とするよりも、皇国の道に従うことを選びました。まさに「信仰告白の事態」でした。
ペテロが教えるのは、正義と公正とを守る秩序を神はお与えになったということです。それに、あなたがたは従いなさいと勧めるのです。そうでないとき、初代教会において迫害を受けた使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです」と言いました。神のもとに置かれた権威であっても神に逆らうものであるときに、それに抗う「抵抗権」を持っているのです。
そればかりではありません。ペテロは一歩進めて言います。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」世に縛られることなく、旅人であり寄留者。だから、「自由人」なのだと。揺れ動く時代の中、それを正しく見分ける目をお与え下さいと祈ろうではありませんか。