黄金律と呼ばれるこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という主イエスの教えは、聖書以外にも様々な宗教の教えにもあります。相手の立場に立ってものを考えるか否か、小さなことの積み重ねです。私たちの多くは外面よくみえても本当の自分が現れる場である「うち」ではできないことが多いのです。いい言葉、でもできない隔たりがあります。
この教えには「それで」ということばが鍵です。山上の説教の一つの頂点は「神の国とその義を第一に求めなさい」、別の言葉で言うなら神を愛すること。それが現れるのは人を愛すること。この二つは不可分で、その第一歩は「さばかないこと」です。自分中心に人を見下し、人の目のちりをさばくが、自分の目に梁が入っているのに気づかない。その梁は恵みとあわれみによって取り去られた。その恵みが真にわかっているか。犬にきよいもの、豚に真珠のようにしてはいないか。だから、愛を「求め、捜し、たたけ」、必ず与えられるというのです。「それで」、この黄金律のことばが生きるのです。
それでも私たちは愛に鈍感です。旧約聖書の律法はそれをこと細かに教えます。すべてが神を愛し、隣人を愛するための教え。だから、この山上の説教の教えは「これが律法であり預言者です」と言うのです。罪深い私たちはどのようにして愛せるでしょうか。
「自分がしてもらいたいように」、いつも私たちは自分中心にさ人をばきますが、イエスは十字架でいのちを捨ててくださった。それは、自分中心から他者中心への転換、それこそが愛の力です。常にここに帰って祈り求めるならば、神が私たちを造り変え、これを生きるようにと導いてくださるのです。これを主に求め続けようではありませんか。