三浦綾子さんが『道ありき』の中で「本当に人を愛するとは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。」と書いておられます。イエス様はここで一人の人を自立に導かれました。
彼は、「38年も病気にかかっている人」(5)。恐らくべテスダで最も重病人。彼が癒やされることでどんな人でも癒やされる希望が与えられます。イエス様は彼に「良くなりたいか」(6)と問われます。直訳は「あなたは良くなることを意思するか」。7節の彼の答は意思を働かせる難しさを示しますが、8節の「起きて床を取り上げ、歩きなさい」とのイエス様の命令には従います。「起きて」に起きようと意思を働かせます。すると起きられた!この時から彼のみことばに意思をもって応答する人生が始まったのです。それを引き出したのがイエス様の「良くなりたいか」。
イエス様の何が彼を自立に導いたのでしょう。
第1は1節。イエス様は祭りにベテスダに足を向けられます。
第2は6節。イエス様は彼が気付く前から彼の状態を見、知っておられます。
第3は6節と8節。イエス様は本当に必要なことを短い言葉で語りかけられます。
つまり、愛の接近と、愛の洞察と、愛の言葉。時間を割き、いろんな犠牲を払っても心から人に届こうとする愛の接近。その人をよく観察し、深い悲しみや痛み、苦しみに気付いていく愛の洞察。その人を立ち上がらせる信仰の意思を与える愛の言葉。
教会とは、このイエス様の愛の接近と洞察と言葉を受け、与える者たちの集まりです。そのことを覚え、人を自立に導くイエス様の言葉に信仰の意思をもって聞き従って行きましょう。