私たちの人生に起こる雨、洪水、風。それは岩の上に建てた家にも、砂の上に建てた家にも同じように起こります。それは信仰を持つ者も、そうでない者も、同じように嵐に遭うのです。3つのエピソードから嵐にどう向き合うのか、考えてみましょう。
マタイ8:23-27には大暴風の湖を叱り鎮められたイエスのわざに人々は「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と言います。それはイエス権威、どんなことでもできるご自身の権威を示す出来事でした。
マタイ17:15-21には、いやしができない弟子たちを前に、「もし、からし種ほどの信仰があったら…どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」とイエスは言われます。私たちが嵐を鎮め、病をいやすことができないのは信仰が足らないからでしょうか。同時に主は「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と言われました。ことは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によることをわきまえなければなりません。
2コリント12章ではパウロに一つのとげが与えられたと書かれています。それをパウロは三度取りのけられるようにと祈った。けれども取りのけられず、むしろ、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」という主のことばを聞きます。彼のあった嵐は弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難。数え切れないほどです。全能の神がどんなことでもおできになる、そして信仰をもって祈るなら、山をも動かすことができる。にも関わらず、嵐がこんなにも強く襲いかかりました。しかし、そこに神が共にいてくださる。それこそ岩の上に立てるいのちなのです。