パウロは「あなたがたのために労したことが無駄になったのではないか」、「途方に暮れているのです」という思いを吐露しながら手紙を書き進めています。私も同労者たちの涙と落胆、祈りと忍耐を多く見てきました。人間的な言い方をすればうまくいった、いかなかった、どこかで歯車が狂ってしまったと見えることであっても、真の問題は福音の真理から外れることです。
パウロは「私のようになってください」と言います。上に立つ人がそう言うとき、そこには先生と呼ばれる人に対する依存体質のようなものができやすいものです。パウロが願っているのは、一人一人が自立した信仰を持つこと。それをわきまえた上で、パウロの心の願いを聞きたいのです。
パウロは肉体の弱さ、何らかの病気を抱えていました。それを三度取り去ってくださるように願ったけれどかなえられず、むしろ弱さを誇ろうと言うものでした。伝道するならば、カリスマ的な魅力を兼ね備えていたら有利ではない思います。しかし、パウロはそれは逆に軽蔑や嫌悪されるような性質のものでした。ですから彼が迎えられ、伝道が進んだのは、「御霊と御力の現れ」(1コリント2:4-5)に他ならないのでした。
パウロの願うことは「あなたがたのうちにキリストが形造られる」ことです。それは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2:20)という告白となり、さらに「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(5:22-23)というものが表れる。つまり、あなたを見て、「あぁ、キリストが生きておられる」と見える人に成長することです。大切なのは表に表れる立派さや成功ではなく、キリストに満たされて、内側が造り変えられていくこと。それを私たちも求め明け渡していきましょう。