私たちにとっていつ死ぬかはわかりません。召天者の中には病気や事故で突然、思いもかけずに召された兄姉がいます。長い闘病の末に召された兄姉がいます。若い者もいれば、長寿を全うしてという者もいます。この箇所は終わりの日について語り、「主の日は、盗人が夜やって来るように来る」とありますが、終わりの日にしろ、私たちが死によって主の御前に立つ日が来るのも同じです。必ず来るのです。
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」とあるように、恐れる必要はありません。暗闇ほど私たちにとって恐ろしいところはありません。それが底知れぬ不安、そして、それに一人向き合わなければならない孤独だからです。
それで、「目を覚ましていなさい」との勧めのことばが語られています。死に向かい、終活をする。それは身辺の整理をして、後の人に迷惑かけないように。それはどうにかなります。問題は魂のことです。ゲッセマネの園で、一度ならず三度も眠りこけてしまったペテロ自身が言うのです。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。…あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(1ペテロ5:9-11)
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」(10)これを励まし合えと言うのです。地上の人生は様々です。眠りに負けるような誘惑もありましょう。今を生きる者も、天に召された兄姉が戦った後、天に召された主の勝利をともに信じて光の子として歩もうではありませんか。