「神のみことばから右にも左にも逸れてはならない。」それは、モーセを通して、ヨシュアを通して民に語られた主のご命令でした。ヨシュアとその世代の者たちは主に仕えますが、次の世代の者たちになるとそこから逸れるのです。神のみこころに従うことこそ、彼らが導かれたところだったはずですが、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」というのが、士師記を総括することばです。
2章には、士師の時代に繰り返すパターンがでてきます。主を捨てて、バアルや神々に仕える→主の怒りのゆえに、周辺の国々に攻められ苦しめられる→主があわれまれ、さばきつかさを起こして救われる→再び逆戻りする。そして「彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった」のです。士師記には12部族から一人ずつ、シメオンの代わりにユダが二人ですが、12人の士師が出てきます。そのうち6人はほぼ名前だけ、6人の働きは記録されています。
学ぶべきは3つのことです。第一に人は徹底して罪人だということです。世代が替わると引き継げず、成功すると神から離れ、あるいは神よりも人の関係を重んじてしまうのです。
第二に救いはただ神のあわれみのゆえです。ギデオンが勝利したのは「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ」と3万2千人を300人まで減らしてミディアンと戦って勝利します。
第三に彼らの歩みは私たちへの反面教師です。神に従う聖さを保つためには、線を引かなければなりません。一方でそれはガラテヤ書に学んだように律法主義的になりやすい傾向があります。そのしるしは自分を誇り、周りをさばくことです。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」(詩篇119:9)のように、あわれみ深いに感謝と喜びをもってお従いする者となりましょう。