私たちにとって、「父」の最大モデルは自分の父親です。無意識にそれは刷り込まれています。私たちは自分が受けたようにします。よいものを受けた人もいれば、悪いものを受けた人もいます。パーフェクトな父親などどこにもいません。そして、残念なことに負の連鎖や欠けの連鎖を必ず受けているのです。
今日のこの箇所は旧約聖書の一番最後です。旧訳聖書のメッセージを一言で言い表すなら、「人間は不信仰な罪人であるが、神はあわれみ豊かであられ、人を決して見捨てず、いつくしみ深くあられる。」ということです。そして、その不信仰な負の連鎖というものが断ち切られることが預言されています。それは藁となって焼き尽くされ、義の太陽が昇り、癒やしが与えられ、子牛のように跳ね回る喜ぶというのです。義の太陽とは、救い主の現れです。そのとき、「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」という、新しい回復が与えられるのです。
エーリッヒ・フロムという心理学者が、母親の愛は無条件の愛、そして、父親の愛は条件的だと言います。その条件とは、父親の期待に応えるということです。父なる神の人に対する期待はご自身のみこころに生きることでした。それに応えられず、さばきを受けるべき人に、父なる神はその身代わりとして御子イエスを十字架に架け、私たちを再び、子としてくださいました。そして「アバ、父」と呼ぶことを許してくださいました。回復です。
私たちもこの主イエスの救いのゆえに、父なる神の愛によって私たちの親子関係を回復に導いていただこうではありませんか。いのちの恵みをともに喜ぶ親子関係を築かせていただこうではありませんか。父子の関係は時代によって変わっているように見えます。でも、その根本にある問題は変わりません。その心が真に変えられることこそ、私たちに必要な変革なのですから。