「困難なときどうするか」2列王記1:1-10

 コロナ後、捕囚からの解放と重ね合わせながら学ぶ予定でした。背景を理解するために旧約聖書の流れを学んでいますが、学びを進めると「どれだけ人が罪深いのか、一方で、どれだけ神はあわれみ深いのか」を民の歩みから教えられます。私たちの罪は普段、覆い隠されて、自分でもなかなか見えません。旧約聖書の人物の姿に自分を映して、神の問いかけを聞くと、自分の罪と神の恵みをより知らされます。
 さて、アハズヤはアハズの息子です。彼の即位とともに2つの困難がやってきます。一つはモアブの離反です。いままでの貢ぎがなくなり経済危機です。もう一つは彼の怪我です。私たちの人生に於ける危機、それは神に向かうチャンスです。人はうまく行っているときに目は開かれません。危機のとき、それは人が神に目を向けるための主の配慮の時でもあるのです。
 人が頼るものは3つあります。一つは自分自身。でも自分ではどうにもできないことが起こります。二つ目は他者。放蕩息子のように、人は自分にメリットがあればチヤホヤ集まりますが、そうでなくなると離れていきます。三つ目は神に頼ることです。それが主ならば感謝ですが、偶像の道に進むかどうか。それがアハズヤには問われています。
 アハズヤは偶像への道を進みました。そのとき、エリヤを通して神は彼にさばき迫ります。「あなたは死ぬ。」それは厳しい悔い改めを迫ることばでした。アハズヤは三度、50人隊を遣わします。一度目、二度目は天からの火で焼き尽くされました。それでも三度目、それはことの確かさを迫ることでした。もう、そのまま焼かれてもしかるべきなアハズヤはエリヤを通して語られる主のことばを聞きます。それにも関わらず拒み続けたのがアハズヤでした。私たちは彼の頑なさと同じようであってはなりません。危機の時こそ、神は私たちの内側を探り、問いかけておられる。真の悔い改めをもって主を頼る信仰を新たにさせていただきましょう。