イスラエルの一族は飢饉のとき、不思議な神のお取り扱いを受けてエジプトに導かれました。そして、そのままエジプトに住み着いて多くの民となりました。エジプト人は彼らを恐れ、奴隷として苦役を課します。その嘆きは神に届いて、モーセを召して10のしるしをもってエジプトから救い出してくださいました。
それは『アブラハム、イサク、ヤコブとの契約』ゆえです。「思い起こされた」とは、「覚えている」とも訳されていますが、神の時は人にとって不思議です。もっと早く、苦しみに遭う前にではなかったら、400年もの間忘れられたのかと考えたりします。しかし神の契約は必ず果たされるのです。試みを経てしかわかならないことが人にはあります。「神のなさることは時にかなって美しい」と最善の時を備えて、ご契約を確かに果たしてくださったのです。
6:6には「贖い」という語が聖書に初めて出てきます。そして、これ以来聖書全体のキーワードになっています。それは「値・代価・復讐をもって自分のものを買い戻す・取り戻す」という意味です。過越の出来事は、裁きを免れるために羊のいのちが代償として払われ、また、エジプトの奴隷から神のものとしてご自分の民を取り戻したのです。ですから、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(6:7)と言われるのです。
それは私たちにとっても同じです。私たちはキリストの十字架の血による贖いによって神に買い戻された器です。罪の奴隷であった私たちが神のものにされたのです。私たちに恵みと祝福をくださろうと神は私たちを尊い代価を払って買い戻されたのです。ならば、わたしのいのちは神のもの、それにふさわしく、神と共に歩ませてくださいと祈りを新たにしようではありませんか。