この箇所のテーマは「奴隷と自由」です。パウロはそれを説明するために比喩としてユダヤ人の父祖アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの話をします。アブラハムは神様から祝福の約束をいただきますが、跡取りがいませんでした。やむなく女奴隷ハガルからイシュマエルを生むのですが、その後にサラからイサクが生まれます。
先に生まれたイシュマエルが指すのは、シナイと古いエルサレム。ユダヤ人の伝統と習慣、神の選民としての長い歴史です。一方、イサクがたとえられているのは、天のエルサレム。新しく生まれたキリスト教会、それはもはや「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。」(3:28)というものです。奴隷ではなく、自由です。
しかし、イエス様が「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」と言われているのに、いまだ古い皮袋のままでいる力が強いのです。割礼派の人たちは「郷に入ったら郷に従え」とユダヤ人の習慣を押しつけます。それは今の私たちにも繋がります。律法主義的な「してはならない、しなければならない、できた、できない」という古い皮袋が奴隷のように私たちを縛り、赦された恵みなのに自分を責め、互いに受け入れられた器なのにさばき合う。
「女奴隷とその子どもを追い出してください」とはサラのことばですが、それと同じように、私たちは古い皮袋を捨てなければなりません。アメイジング・グレイスを書いたジョン・ニュートンは奴隷船の船長でした。嵐の中、難破の危機の船中で回心をしますが、奴隷船を降りるには2年を要します。やがて牧師となり、奴隷解放運動に関わっていくのですが、時間がかかるのです。古い人、古い皮袋を捨てるには時間がかかるかもしれません。しかし、自由の子、「アバ、父」と呼ぶ神の子は自由と愛に生きるために十字架の恵みをいただきました。それに向かっていこうではありませんか。