「強いられてではなく、自発的に」ピレモン8-16

 パウロはピレモンを深く信頼しています。それはこれまで、「聖徒たちが安心を得た」、多くの愛の奉仕をしてきたということです。そのようなたあなただから、今、なすべきこととして「命じることもできるのですが」、「むしろ愛のゆえに懇願します」とパウロは言います。
 パウロは、教えを述べるコロサイ書の中で、「愛」について、「すべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)と言います。行動原理はすべてがキリスト。そして、十字架の愛がベース。オネシモはローマで、神の導きによってパウロと出会い、救われました。パウロは旧知の同労者の元から逃げ出した逃亡奴隷であるこのオネシモのことを「彼は私の心そのものです」とまで言い、赦しと許しを願うのです。
 しかしながら、それはピレモンの同意、そして、その「親切が強いられたものではなく、自発的なものとなる」ことをパウロは願います。私たち人間は、創造の神のかたちに帰るなら、みな「自ずから考え、自ずから決断し、自ずから行動する」人格を持ち、また、自由に愛し合う存在です。ところが堕罪によって支配・被支配の関係が入り込んできました。キリストによって愛のかたちを取り戻し、自発的に愛することを選ぶこと。それをパウロは懇願しているのです。
 コロサイ書には、「新しい人は・・・奴隷も自由人もありません。」ということばがありました。愛する兄弟として主人と奴隷という関係から、新しい関係に入れられる恵みについてパウロは語るのです。いくら奴隷制度をなくしても根深く差別は消えません。あらゆる差別の根本は人の心にあるからです。人の心が造り変えられる、それは「私ゴト」としてキリストの愛を経験する者の「証」によってしか変えられないのです。そして、一人の人の輪が重なり重なりして世界を覆うこと。それが神の国の実現なのです。ともに私もと祈りましょう。