奴隷であったエジプトから贖い出されたイスラエル、「鷲の翼に乗せて、私のもとに連れてきたこと」と主は言われます。そしてここで、私に聞き従い、契約を守るなら、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」と新たな契約を結ぼうとされます。アブラハム契約は、神の約束にアーメンと従う契約でした。一方、ここで結ぶシナイ契約は、民が追うべき責任が問われます。民は口を揃えて「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と応答します。
その中心は十戒です。十戒は大きく3つの目的と役割があります。第一に神の聖さの基準を示し、一方で罪を教えて悔い改めること。第二に義と公正を気にかけない者に、刑罰によって行為を抑制させること。第三に神を愛し、従おうとする者にみ旨を教えること。残念ながら人は神の戒めを守り行うことができません。罪人に過ぎないのです。ですから、民に命じられたもう一つの大切な大切な教えは幕屋での礼拝、とりわけ贖いのいけにえです。
民を導いたモーセが晩年、最後の務めとして民に繰り返し強調したのはこの契約を守り行うことです。とりわけ申命記30:15からのことばは選択を迫ります。「見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。…私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら…しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら…」
罪の世にあって、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」、それは今の私たちも同じです。神の戒め、その基準に照らせば罪深い私たちです。だからこそ求められているのは悔い改めとへりくだりです。欠けだらけの器を十字架の贖いをもって赦し、聖めてくださった。だからこそ、それにふさわしく歩ませてください。そして、あなたの恵みの器にさせてくださいと祈り進もうではありませんか。