美しの門でのいやしの後、捕らえられたペテロとヨハネは祭司長、長老たちに脅されながらも「見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません」とのことばを残して釈放されます。彼らは仲間にことの次第を報告します。そのときに一同が主に向かって祈った祈りがこの箇所です。
彼らの祈りは2つの内容です。それは第一に、主はどのようなお方なのかという告白です。天地の創造者である神はすべてのことをすべ治められるという絶対的な信頼です。第二に、主はお立てになった計画に従ってご自身のみわざをなさったことです。そのみわざとは、人はイエスを十字架にかけたが、神はよみがえらせて、ご自身の御力を示してくださったこと。主は生ける真の神なのです。
世々のキリスト者はこの告白を問われる経験を彼らと同じように経験しました。第二次大戦中のドイツの教会はナチスを第一とするか、キリストを第一とするかの選択を迫られました。日本の教会、支配下にあった朝鮮の教会も同じように天皇を第一とするか、キリストを第一とするかの選択を迫られました。日本では、そのしるしとして神社参拝が強要され、戦費拠出のための献金が求められました。大多数の教会は神社参拝は国家の儀式であり、信仰には無縁という決定をしました。そんななかで異を唱え、ただ生ける真の神のみと告白した者たちは大きな迫害を受けたのです。これらのことは今も決して無縁ではありません。私たちは流されやすい者だからです。
さて、迫害を受けた彼らはあくまで主の御手に寄り頼み、祈りを献げます。恐れるものはない。主にあっての勇気をいただいて、歩むのが私たちです。ここにしっかりと踏みとどまろうではありませんか。
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