パウロの手紙には特徴があって、教理を教えた後に実際にどう生きるのか。私たちの生活に結びついた教えをします。キリスト者の生活は外面だけを変えようとするならば、再び、律法主義に陥ってしまいます。内側が造り変えられること、キリストの救いのみわざに根ざしたものとなることが大切なのです。5章からそれが始まります。
1節のことばにこれまでの議論が集約されています。十字架の恵みをいただきながら、なぜ割礼派の律法主義、「してはならない、しなければならない、できた、できない」というものに逆戻りするのか。律法の奴隷には自由がありません。命令と服従という関係ですが、信仰によって、「アバ、父」と呼ぶ愛の関係、自由をいただきました。ところが、わずかなパン種がふくらませるようにかき乱すものが入ってくるのです。
「義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって」(5)は救いのことばです。この世にあっては神の子とされ、やがて天に迎えられる望み、それは私たちにとっては信仰によってのみ、神の側では聖霊によってのみ、それ以外の道はないということです。
そして、「キリスト・イエスにあって大事なのは…愛によって働く信仰なのです。」と教えます。「働く」ということばはエネルギーです。信仰に力、エネルギーを得て、愛に向かうにです。それはこの後、5章、6章でより具体的に教えられていきます。教理の土台の上、つまり、キリストが私に何をしてくださったのか。それを御霊が思い起こさせ、その上に信仰をもって~それは恵みをからっぽの手で受け取ること~愛によって働く力を得る。それがキリスト者の進むべき道なのです。
惑わす力が強く働くのは新約聖書の時代も今も同じです。健全な教理の上に立つことは「ただ信仰のみ」、その上に力を得て愛に生きる歩みをしようではありませんか。