この箇所のテーマはさばきです。私たち人間にとっての問題の一つは恐れの欠如ではないでしょうか。ダビデの息子アムノンは異母姉妹であるタマルを犯します。ダビデはそのことをに憤りを感じながらも何もしませんでした。正しくさばくことをしなかったがために報復である兄弟殺し、それがゆえの親子断絶、さらなる報復と連鎖を止めることができませんでした。神のさばき、それは神を神として恐れ、健全な歩みをするためにどうしても必要なことなのです。
ここで3つのさばきについて教えれています。第一は御使いのさばき、聖書の中に具体的な記述はほとんどありません。しかし、イエスは言います。「サタンが、いなずまのように天から落ちました。」今やイエスの権威と支配が世に及んでいます。第二はノアの日のさばきです。神のみ思いは人を造ったことを悔やみ、残念に思われました。そして、一方で救われるべき道、信仰による救いの道を備えてくださいました。約束の虹を見る度に人は神を恐れ、一方であわれみに感謝するべきことを示されたのです。第三はロトです。ソドムの町、そこには豊かさと同時に堕落がありました。ロトもその中に半ば染まりながらもあわれみによって救い出されます。彼がが義人と呼ばれることは慰めです。それは救いは私たちによるのではなく、あわれんでくださる神にあることを教えているからです。
今、ここに問われることは、罪深いこの世にあって、心を痛めているか、罪の感覚がマヒしてはいないか、恵みのゆえに信仰によって救われたことに感謝し、聖さを求めているかということです。そこには、神に対する恐れをいつも覚えるべきことにもう一度目を留めよとペテロは問いかけているからです。その問いに心を正そうではありませんか。